COLUMN

2026/

08/10

【酒蔵から考える】第1回 ウイスキーは日本酒を救うか

日本酒蔵がウイスキーを造る。

そう話すと、しばしば同じような反応が返ってくる。

日本酒が厳しいから、ウイスキーへ移るのか。
ウイスキーブームに乗るのか。
日本酒を諦めるのか。

私は、その問いに少し違和感を覚える。

ウイスキーは、日本酒の代わりではない。
まして、日本酒を捨てるための選択でもない。
しかし一方で、酒蔵がこれからも日本酒だけを造り続ければ、
自然に未来が開けるとも思っていない。

だから、あえて問いたい。

ウイスキーは日本酒を救うのか。

この問いに、明確な答えはない。

救うこともある。
救わないこともある。
むしろ、始め方を間違えれば、ウイスキーは日本酒を救うどころか、
酒蔵そのものを空洞化させる可能性すらある。

流行しているから造る。
単価が高いから造る。
日本酒の売上が苦しいから、その穴埋めとして造る。

もしそうであるなら、ウイスキーは日本酒を救わない。

ウイスキーは、簡単な事業ではない。
原酒を造っても、すぐには商品にならない。
最低でも数年の熟成期間が必要になる。その間、資金は寝続ける。樽は場所を取り、管理も必要になる。品質も、将来の市場も、完全には読み切れない。
短期の資金繰りだけを考えれば、酒造業の中でも最も手を出してはいけない事業の一つかもしれない。

だからこそ、単なる流行や売上目的で始めるなら危うい。

人も資金も分散する。
蔵の思想は薄まる。
何のために酒を造っているのかという軸を失っていく。

酒蔵が売上を追うこと自体は悪ではない。
利益がなければ、文化は残らない。
人も雇えず、建物も直せず、次の挑戦もできない。

しかし、売上だけを追い始めた瞬間、酒蔵は酒蔵でなくなる危うさを持っている。

では、なぜ私はウイスキーを造るのか。

それは、日本酒蔵だからこそ挑戦できる問いがあると考えたからである。

私たちがつくりたいのは、スコットランドの模倣としてのウイスキーではない。
海外原酒を買い、瓶に詰め、ラベルを貼る商売でもない。
日本酒蔵が長い時間をかけて培ってきた発酵の思想を、別の酒のかたちで問い直すことである。

清酒酵母による発酵。
酒米を磨く過程で生まれる吟醸粉の活用。
低温で時間をかける発酵設計。
米、水、麹、酵母と向き合ってきた感覚。
それらは、日本酒のためだけに閉じ込めておくべき技術ではない。
日本酒蔵が受け継いできた、無形の型である。

ウイスキーというと、樽の種類や熟成年数、原材料や蒸留方式が語られやすい。

もちろん、それらは大切である。

しかし、それだけでは酒の本質には届かない。

重要なのは、なぜその原料を選び、なぜその発酵を行い、なぜその蒸留に至ったのかである。
スペックの背後にある必然性。
技術の奥にある思想。
そこにこそ、酒蔵の個性が宿る。

日本でしか絶対につくることのできないウイスキーとは何か。

この問いは、単に国産原料や国産木材を使うという話に留まらない。

日本の酒造文化が何を積み重ねてきたのか。
日本酒蔵は、世界に対してどのような酒のあり方を提示できるのか。
洋酒の器に、日本の発酵文化を映すことはできるのか。

私にとって、ウイスキー造りはその問いへの実践である。

日本酒とウイスキーを競合させてはいけない。
日本酒か、ウイスキーか。
その二項対立で考えると、議論は必ず貧しくなる。

私にとって、日本酒とウイスキーは、同じ酒蔵という思想から生まれる異なる表現である。

日本酒は、発酵の瞬間性や季節性を強く持つ。
ウイスキーは、熟成という長い時間を価値へ変える。

どちらも酒であり、どちらも時間を扱う。
ただし、その時間の現れ方が違う。

日本酒は、その年の米、その年の水、その年の造りの気配を映す。
ウイスキーは、仕込んだ後に樽の中で沈黙しながら変化していく。

この二つを一つの酒蔵が持つことは、単なる商品ラインナップの拡張ではない。
時間の扱い方を複数持つということでもある。

そして、そこにウイスキーが日本酒を救う可能性がある。
それは、ウイスキーが売れるから日本酒が救われる、という単純な話ではない。

ウイスキーを通して、酒蔵が長期の時間軸を取り戻すこと。
高付加価値の商品を持つことで、設備投資、人材育成、海外展開へ再投資できる余地をつくること。
そして何より、酒蔵が自らの存在理由をもう一度問い直すこと。

私はここに、冷徹な経営判断と、文化を守る思想の接点があると思っている。

文化は、気持ちだけでは残らない。
地域の酒蔵を残したい。
日本酒文化を守りたい。
そう語ることは大切である。

しかし、赤字が続けば人は雇えない。
建物や機械は修繕できない。
技術は継承できない。
新しい挑戦もできない。
利益は文化の敵ではない。

むしろ、文化を未来へ受け渡すための燃料である。

ただし、その利益が何のために使われるのかが問われる。
売上が増えても、酒蔵の思想が失われるなら意味がない。
利益が出ても、地域や文化への還元がなければ、単なる事業拡大で終わる。
ウイスキーが日本酒を救うとすれば、それは利益が文化へ戻る構造をつくれたときである。

酒蔵が残れば、日本酒も残る。
酒蔵が失われれば、日本酒だけを守ることはできない。

日本酒とは、瓶の中身だけではない。
蔵の建物があり、水があり、米があり、働く人がいて、土地の記憶がある。
その総体の中で生まれるものが日本酒である。

だから本当に守るべきものは、商品としての日本酒だけではない。

酒蔵という文化資本である。

SAKE RE100というプロジェクトも、最終的にはこの問いに向き合っている。

再生可能エネルギーを使うこと。
環境に配慮すること。
地域へ還元すること。

それらはもちろん重要である。
しかし、それらは目的ではない。
酒蔵と地域文化を次の世代へ受け渡すための手段である。

持続可能性とは、美しい言葉を掲げることではない。
続くための構造をつくることである。

その意味で、ウイスキーは一つの試金石である。
日本酒蔵が、異なる酒を造ることで何を守ろうとしているのか。
新しい挑戦によって本質を失うのか。
それとも、本質をより深く掘り当てるのか。
その分岐点は、商品ではなく、問いの深さにある。

ウイスキーは日本酒を救うか。

今の私には、まだ断言できない。
ただ、一つだけ言えることがある。

救うのは、ウイスキーそのものではない。
未来に向けて問い続け、変わることを恐れず、それでも自分たちが何を受け継いできたのかを忘れない酒蔵だけが、結果として日本酒を未来へ受け渡すことができるのだと思う。

日本酒を守るために、ウイスキーを造る。

一見すると矛盾している。
しかし、伝統とは、そうした矛盾を引き受けながら更新され続けるものなのかもしれない。

私たちが造っているのは、ウイスキーではない。
日本酒蔵の未来である。

次回は、「日本酒市場はなぜ縮小するのか」をテーマに、市場の数字ではなく、その背後にある構造について考えてみたい。

執筆者:西堀哲也

西堀酒造株式会社 六代目蔵元、SAKE RISE株式会社 取締役

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